幼稚園を経て、小学校になった。現在はランドセルの色はカラフルで、ラン活と呼ばれ、ランドセル選びもイベントの様になっているが、当時は女の子は赤・男の子は黒。それが当たり前だった。
小学校になると、通っていたYAMAHAはグループレッスンから個人レッスンに変わり、スイミングの習い事が増えた。いきなりぶち込まれた記憶がある。スイミングは金曜日で、毎週憂鬱だった。それでも、辞めるという自由は与えられなかった。いつの間にか習字も習い事として増えていた。
毎年夏休みと冬休みには家族旅行に行った。夏は海、冬はスキーという定番の旅行だが、今思うと毎年5人家族で年2回旅行に行けるというだけでも、随分恵まれている家庭だったと思う。当時は全く気にしたことなかったうえに、この旅行の為にお年玉が自由に使わせてもらえず、理不尽だとすら思っていた。
小学校1年生の時に、通学中に事故にあった。トラックとの接触事故で、集団登校の道すがらだった。相手のトラックは逃げて、そのままだ。当時は携帯なんてなかったから、通学の見守りのお母さん方に付き添われて血をダラダラと流しながら小学校まで歩いた。小学校に着いてすぐに救急車を呼ばれ、出血が多かった為、消毒もせずに9針縫った。小学校で救急車を待っている間に、ブラスバンドの朝練で先に登校していた姉が呼ばれた。姉は血だらけの私を見て、固まっていた。
当時の私にとっては、姉は自分を守ってくれるのが当たり前の存在だった。血だらけの私を見て固まっている姉を、当時の私は、ただ見てるだけとしか認識できなかった。今思えば、姉も当時小学校5年生の子どもなのだから、血だらけの妹を見て絶句して固まるのも無理はないと思えるが、当時はなぜ助けてくれないのか、物凄く薄情な姉に思えた。
姉はあの日、どの様な気持ちで授業を受けていたのだろう。朝、自分の妹が血だらけで救急車で運ばれて安否も分からない。大人でも一日落ち着かない気持ちで過ごすだろう。今度会ったら聞いてみよう。
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