愚痴りあえる友人の大切さ

38歳のいま、若者に伝えたいこと

10~20代の時は、友達と集まってはよく愚痴っていた気がする。30代後半を過ぎて、愚痴ることはめっきり減った。それぞれ仕事に、家庭に忙しい。しかし、愚痴を言うことは本当に大切だと感じる。それも、SNSに吐き出すのではなく、Face to Faceで愚痴を吐くことが大切だ。

昨日、友人とランチをしていた。彼女は育休中で、飲み会も控えている。その彼女が言っていた言葉が非常に印象的だった。”飲みに行ってるときは、それぞれの愚痴を聞いていたから、苦しいのは私だけじゃないんだな、と思えたけど、昼間の活動だけになると、愚痴を聞く機会がないから、周りの人間は順風満帆に人生を歩んでいて、苦しいのは自分だけなんじゃないかという錯覚に陥る”と。愚痴は、本人のストレス解消にももちろんなるが、聞いている側にも人間の弱さを自覚させる。

完璧な人間を求めるなら、AIには叶わない。それを求めた瞬間、人間の為に作られたAIが、AIの為の人間に成り下がる。完璧じゃない、葛藤を持つのは人間の証だ。

2024年現在では、SNSの登場で、愚痴は吐きづらくなった。誰もがSNSを通した”正解”の自分でいる為に演じている。その生活は、綺麗で秩序だった生活だと思うが、そこに談笑が存在するのか、考えてみてほしい。私の狭い観測範囲では、談笑に繋がる話題は推し活が中心となっている。

推し活は確かに楽しい。けれど、その推しは、自分ではない。自分の人生を歩むために、自分の生活で起こったエピソードや感情を共有して談笑する方が、人生は豊かではないか。私は古い人間なのかもしれない。しかし、これが当たり前だった子ども時代~青年時代の方が、確実に幸福度は高かった。自信を持って言える。

コメント

タイトルとURLをコピーしました